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ネット上に「マナーポリス」が横行するわけ

「本当にどうでもいいじゃん」。最近のネットにはそんな話題にあふれている。まあ、ネットというのは、そもそもが、そういうところなのかもしれないが、とくに、人の心をざわつかせているのが、「謎マナー」というやつだ。

 つい先日は、モデルの山田優さんが、「天皇皇后両陛下お疲れ様でした」とつづったブログが、「失礼だ」と話題になった。「お疲れ様」というのを目上の人間に使うのはおかしい、ましてや天皇陛下に対して……と、批判が集まったというのだ。

 これに対して、国語の専門家が、「ほとんどの辞書では、目上の人に『お疲れ様』と使うことはおかしくない、とされている」とTwitterでコメントしているが、必要かどうかわからない、根拠のない「謎マナー」はまだまだ、星の数ほど存在する。

■ゴマンとある理不尽すぎる謎マナー

 この10年ほどでネット上で急速に広がったのが、「『了解しました』は失礼」論だ。筆者もそんな書き込みを目にしてから、「承知しました」「かしこまりました」などと書き換えるようにした。そもそも、なんで、ダメなのかもよくわかっていないままに、「粗相(そそう)があってはならない」と同調してしまったのである。

 ネット上で調べてみると、かつては「了解しました」は相手の年齢に関係なくOKとされていたらしいが、10年ほど前から、「了解=失礼」説が出始めたらしい。どうやら、根拠はあまりないらしく、ネットという拡散装置で、いかにも「真説」として流布してしまったようだ。

 そもそも「箸の上げ下ろしまで」を気にする「重箱の隅をつつく」系の国民性であり、人の行動をありとあらゆる角度から規制する「ブービートラップ」が無数に存在する社会なのである。「男子の髪型は丸刈り」「下着は白」などのブラック校則から、上司以外のハンコは斜めに押す、履歴書は手書き、名刺は相手より低い位置から出す、ビールを注ぐときはラベルを上になど、理不尽すぎる謎マナー・ルールはゴマンとある。

なぜそれが必要かと言われれば、まったく理由が説明できない非合理ルールであっても、「慣習」「決まり」「風紀」「伝統」とか言われてしまえば、ぐうの音もでない。

 こうした「古くからの伝統系ルール」に加えて、「エレベーターで話してはならない」とか、「飲み会に誘ってはならない」とか、「男性上司は女性の部下と2人きりで食事に行ってはならない」といった「新ルール」も次々と登場し、もうがんじがらめなのである。

 例えば、この東洋経済オンラインの記事の中にも「キャリア女性はパンツスーツがいけない」と説く説が登場したが、いったい、いつの時代の「マナー」の話なのかと困惑した。

 筆者が1990年代に記者として北朝鮮を訪問したとき、女性がみな極寒の中でスカートをはいているのに驚いたが、「女性はパンツをはいてはならない」という指導部の考えがあるからだ、とガイドから聞いて、同情しかなかった。

 アメリカでも1993年まで、上院ではパンツをはいてはならない、というルールが存在していたように、女性にとってパンツスーツは、「長い戦いの末、勝ち取った権利」であり、男女同権の象徴的存在という意味合いもある。「伝統」なのか「お作法」なのか、もしくは男性ウケを考えて、「パンツNG、スカートOK」なのか、理由はよくはわからないが、やはり、こうした根拠なき「マナー」には違和感しかない。

■「正解はたった1つ」でそれ以外は不正解

 ただ、「はい、これが正解です。あなた、そんなことも知らなかったの?」という問いかけは、たぶん、今、日本人がいちばん好きなレトリックなのかもしれない。テレビを見ると、クイズ番組、常識番組が花盛りだ。雑学やニッチな知識を問題にし、「知っている人」が偉くて、「知らない人」をバカにする建付けだったりする。すべての問いに「正解はたった1つ」。それ以外は不正解、価値がないのである。

 コンピューターで調べれば何でもすぐに答えが出てくる時代に、「雑学のような知識」で人の知性を測る手法もいかがかと思うが、「思考力」よりも「知識」に価値が置かれやすい。

 昨今の「教養ブーム」について、「会社で出世しなかったり、うまくいかなった人たちが、俺は『教養』があるんだ、と成功者をバカにするための、ルサンチマン(弱者が強者に対して、憤りや憎悪の感情を持つこと)的意味合いがある」と、ある専門家が解説していたが、「マナー」にもそういった側面があるのかもしれない。

不思議なことに「お疲れ様でした」も「了解しました」も、何気なく使っていたときは何も問題がないと思っていたのに、「これが失礼だ」という説を聞いた瞬間に、「そんなものか」と簡単に受け入れて、言い換えるようになる。そして、それ以来、他人が使うと、「間違っているのに、なぜ気づかないのか」などと腹立たしくなり、自分が「マナーポリス」化してしまうところがある。

 5月13日には、京都の銭湯の店主が、初めて銭湯を利用する客や若者のマナー違反にきつい言葉をかけたりしかりつける常連客に対し、「優しく注意してほしい」と掲示した張り紙がTwitter上で拡散している、という京都新聞の記事が話題になった。張り紙は「浴場ルールを理解されていない人もいるが、それは悪意はなく、経験が少ないだけであり、きつい言い方で叱るのではなく、優しく注意するか、番台に声をかけてほしい」といった趣旨で、行き過ぎた「マナーポリス」にやんわりとくぎを刺す内容だった。

 「マナーポリス」は、「人に迷惑をかけることは大罪である」という日本人独特の考え方の延長線上にあるとも考えられるが、自分がかけているかもしれない迷惑は棚の上にあげて、「他人の迷惑は絶対に看過できず、厳しく罰するべきである」という狭量さ、非寛容性を帯びている。

 欧米の教育では、「正解」といったものはあまりない。自分なりに問いを立て、解を見つけるプロセスが教育だが、日本では、つねに「正解」というものがあり、生徒はその「正解」を習い、覚えるのが教育である。だから、自分から「正解」を作り出すのではなく、与えられたい。そういった意味で、日本は「マナー」という「正解」が大好きで、妄信するきらいがある。

 また、失敗してもいいから、新しいことにトライしようという「加点主義」というよりは、間違いや失敗を極端に恐れる「減点主義」の下では、「マナー」というプロトコールに1から10まで従っておけば、失点はないし、マネをしておけば、問題はないという計算も働く。

■非合法的マナーの強要が「常識」になっている不条理

 そして、その「正解」に従おうとしない人を排除しようとする「ムラ社会」的メンタリティーが「マナーポリス」の跋扈(ばっこ)を招いている。

多くの「マナー」が、日本独特のタテ社会の常識の下に培われたものだ。目上、目下という順列を守るための規則集という側面もある。それが文化であり、慣習であり、伝統であるとされる場合、打ち破るのは極めて難しい。そうした「旧説」がアップデートされないままに、「新説」まで加わって、合理性もなく、説明することもできない「ゴーストルール」が蓄積されていく。

 「マナー」の怖さは、知っている者がエラく、知らない人は常識がないと単純化し、遊びも余白も自分なりの解釈も許されないところにあり、それが時に、排他性に結びつくところではないだろうか。本来は相手が不快に思ったり感じたりしないようにするための行儀・作法という意味だが、その決まり事は国や時代、人などによってまったく異なるわけで、「真実」とも「常識」とも違う。

 言葉もマナーも時代に合わせて進化する。1ミリの隙も許されない、根拠のない、非合理的マナーの強要は思考力も創造性も奪うものでしかない。

※東洋経済オンラインより転載

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